高久靄がいの墓

那須塩原市の生んだ江戸末期の画人高久靄がい(※がいはがんだれに圭)(たかくあいがい)(1796~1843)は、幼名を辰之助、名は徴、字名は子遠、号は踈林外史、如樵などと称した。出身は越堀の杉渡土(戸)(すぎわたど)で、幼時から絵に親しみ、文政6年(1823)に谷文晁(たにぶんちょう)の門に列し、渡辺崋山(わたなべかざん)・椿椿山(ちんざん)・立原杏所(たちはらきょうしょ)と並ぶ四哲の一人とされた大家である。また、栃木県においては足利の田崎草雲(たざきそううん)とともに南画の双璧をなした画家である。
天保14年(1843)4月8日、病のため晩成山房と名付けた江戸(両国薬研堀)の画室で急逝(きゅうせい)(48歳)した。墓碑は、杉渡土西方の高久家の墓地にある。靄がい(※がいはがんだれに圭)の妻が江戸を引き上げて故郷の仙台に帰る途中、高久家に滞在し靄がい(※がいはがんだれに圭)の遺髪を埋め、位牌をかたどって墓石を建てたと伝えられている。文字は東京都台東区谷中の天龍院の墓碑と同じく、大橋淡雅(おおはしたんが)の筆である。
なお近年、高久家墓地が整備され、靄がい(※がいはがんだれに圭)の墓は数メートル移されて他の墓碑と共に直線的に並べられた。
名称
高久靄がい(※がいはがんだれに圭)の墓(たかくあいがいのはか)
高久靄がい(※がいはがんだれに圭)(たかくあいがい)について
江戸時代の画家。那須塩原市越堀字杉渡土の高久家出身。幼少のころから絵を好み、黒羽の画家小泉斐(あやる)に絵の手ほどきを受ける。その後大田原・鹿沼・仙台等を遊歴し、絵を学ぶ。文政6年(1823)の時江戸にのぼり、谷文晁の門人となった。たちまち頭角を現し、渡辺崋山・椿椿山・立原杏所らと並ぶ画家として名声を博し、代表作に六曲一双屏風《歳寒三友図》等がある。
号は靄がい(※がいはがんだれに圭)の他に如樵・疎外外史・鳩尾・九峰等がある。48歳で世を去り、江戸谷中の天龍院に葬られ、遺髪が杉渡土の高久家墓所に埋葬された。なお、若いときは個性むき出しの野人であったが、晩年は温厚にして謙虚であったという。
指定年月日
昭和44年(1969)7月10日
員数
1基
指定別
市指定
区分
記念物
種別
史跡
所在地
越堀856
所有者
個人所有
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更新日:2021年11月30日