三斗小屋宿跡
三斗小屋宿跡
三斗小屋宿跡は、三斗小屋温泉の西方約3キロメートル、板室本村から12キロメートルほど北、那珂川上流の標高1,100メートルの山あいにある。天和3年(1683)会津西街道が地震で遮断されたため、会津藩が元禄8年(1695)に会津と氏家を結ぶ会津中街道を新しく開削し、国境の大峠の北側に野際新田(のざわしんでん)宿、南側に三斗小屋宿を設けた。
元禄9年(1696)の会津藩の記録では人家はなかったとあるが、その後、人が移り住み物資輸送や宿泊関係の仕事にあたった。三斗小屋の北には標高1,468メートルの大峠、南には麦飯坂(ばくはんざか)があって、この一帯は街道一の難所であった。
江戸時代の末期には修験道の白湯山(はくゆさん)(「はくとうさん」ともいう)信仰が盛んになるとその登山口として栄え、安政3年(1856)の山開きには参詣者が1日に1,000人を超えた記録がある。そのため、今なお寄進された常夜灯や石仏・大鳥居(平成19年復元)などが残っている。
三斗小屋宿は、慶応4年(1868)の戊辰戦争(ぼしんせんそう)の際、会津軍(旧幕府軍)が駐屯し、新政府軍との激しい山岳戦が展開された場所でもある。この戦いは新政府軍が勝利し、この戦火により三斗小屋宿の14戸が焼失した。宿跡の南方約200メートルの墓地には、戊辰戦死若干(じゃっかん)墓が残る。
明治26年(1893)には三斗小屋に銅山が開かれ、宿の近くで精錬が行なわれたが、明治41年(1908)5月の大火で14戸すべてが焼失し、昭和32年(1957)に最後の1戸が転出して無人の地となった。
名称
三斗小屋宿跡(さんとごやじゅくあと)
指定年月日
昭和44年(1969)7月10日
指定別
市指定
区分
記念物
種別
史跡
所在地
板室(三斗小屋)
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更新日:2021年11月30日