三斗小屋宿跡

更新日:2021年11月30日

手前から奥に道が伸びており、道の脇には木が植えられていて奥に山がある写真

三斗小屋宿跡

三斗小屋宿跡は、三斗小屋温泉の西方約3キロメートル、板室本村から12キロメートルほど北、那珂川上流の標高1,100メートルの山あいにある。天和3年(1683)会津西街道が地震で遮断されたため、会津藩が元禄8年(1695)に会津と氏家を結ぶ会津中街道を新しく開削し、国境の大峠の北側に野際新田(のざわしんでん)宿、南側に三斗小屋宿を設けた。

元禄9年(1696)の会津藩の記録では人家はなかったとあるが、その後、人が移り住み物資輸送や宿泊関係の仕事にあたった。三斗小屋の北には標高1,468メートルの大峠、南には麦飯坂(ばくはんざか)があって、この一帯は街道一の難所であった。

江戸時代の末期には修験道の白湯山(はくゆさん)(「はくとうさん」ともいう)信仰が盛んになるとその登山口として栄え、安政3年(1856)の山開きには参詣者が1日に1,000人を超えた記録がある。そのため、今なお寄進された常夜灯や石仏・大鳥居(平成19年復元)などが残っている。

三斗小屋宿は、慶応4年(1868)の戊辰戦争(ぼしんせんそう)の際、会津軍(旧幕府軍)が駐屯し、新政府軍との激しい山岳戦が展開された場所でもある。この戦いは新政府軍が勝利し、この戦火により三斗小屋宿の14戸が焼失した。宿跡の南方約200メートルの墓地には、戊辰戦死若干(じゃっかん)墓が残る。

明治26年(1893)には三斗小屋に銅山が開かれ、宿の近くで精錬が行なわれたが、明治41年(1908)5月の大火で14戸すべてが焼失し、昭和32年(1957)に最後の1戸が転出して無人の地となった。

名称

三斗小屋宿跡(さんとごやじゅくあと)

指定年月日

昭和44年(1969)7月10日

指定別

市指定

区分

記念物

種別

史跡

所在地

板室(三斗小屋)

地図リンク

この記事に関するお問い合わせ先

教育部 生涯学習課 文化振興係

〒329-2792
栃木県那須塩原市あたご町2番3号

電話番号:0287-37-5419
ファックス番号:0287-37-5479

お問い合わせはこちら

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください
このページの情報は役に立ちましたか?



このページの情報は見つけやすかったですか?